ペルーの歴史

文明の幕開け

 地球上にいくつかの文明が誕生した。その一つがアンデス文明である。それはユーラシア大陸で誕生した文明とは明らかに異なる文明である。旧世界での文明は大河流域の肥沃な農業地帯で誕生したが、アンデス文明は険しいアンデス山中と乾燥した海岸砂漠地帯で誕生している。そして旧世界とはまったく交流を持たない文明であった。
 アンデス文明の起源を辿ると、まず初めに神殿があった。紀元前2000年よりも昔、まだ土器も作られず本格的な農業も始まる前に人々は神殿を築いた。アンデスにおける文明への歩みはチャビン・デル・ワンタル遺跡にあると考えられていたが、コトシュの「交差した手の神殿」はそれより古く紀元前2500年にさかのぼる。また近年発見、発掘が行われたカラル遺跡は紀元前3000年頃の神殿だということ分かった。現在天野博物館主体で進められているチャンカイ谷にあるラス・シクラス遺跡もカラル遺跡と同時期の大規模な公共建造物(神殿)であることは間違いないと思われている。
 いずれにせよペルーのアンデス地帯全域に影響を与えた最初の文明はチャビン・デル・ワンタル神殿を中心に栄えたチャビン文化である。チャビン・デル・ワンタル神殿は紀元前800年ごろ建設された壮大な石造建築であり、神殿の内部には複雑にめぐらされた数多くの回廊がある。紀元前250年ごろ、各地で発展してきた神殿を中心とする社会は揺らぎ、チャビン文化は紀元前200年ごろには消滅する。
 チャビン文化よりやや遅れて、ペルーの南海岸ではパラカス文明が栄えた。この文化は美しい彩色土器を多く残している。パラカスの土器の彩色は、焼いたあとにつけられたもので、焼く前に着色するようになったのは、そのあとにくるナスカ文化からである。いずれにせよ南海岸では華やかな彩色土器を多く制作したのが特徴である。
 紀元前後、現在のボリビア領のチチカカ湖に近くでティワナコ文化が興った。インカの精巧な石組みに影響を与えた巨石文化と言われている。この文化の息は長く1200年くらいまで続いている。海岸地帯にも影響を与えた文化である。ラパス郊外にカラササーヤ神殿を中心とするティワナコ遺跡が残っている。
 アンデスの全域に影響あたえたチャビン文化が滅んだあと、各地におおくの文化が栄えた。北海岸に栄えたのはモチェ(モチーカ)文化である。この文化は紀元直後からモチェ川流域で発展を開始し、ゆたかな農業生産の上に、多くの神殿や集落を築き、軍事力を蓄え、近隣のチカマ、ビルーなどの川筋を征服した。長さ80キロメートルに及び水路や貯水池などを作って農業生産の増大を図った。「ツタンカーメン王の墓と並ぶ、今世紀最大の発見」と言われる「セニョール・デ・シパン」の墳墓はこの時代のものである。
 南海岸ではパラカス文化の衰退のあとナスカ文化が興った。この文明で有名なものは地上絵である。ナスカ・フアナ平原に描かれた巨大な地上絵はペルーを訪問する観光客を魅了している。パラカス文化の影響を受けた土器は、一段と発達し彩色豊かになった。
 紀元後650年ごろから興ったワリ文化で再びアンデス地域は文化の統一を迎える。チャビン文化より広範囲に渡り影響をあたえ、集落や建物の型にも大きな変化が起こっているので、激烈な社会変動が伴われたのではないかと想像されている。
 ワリ文化も紀元後1000年ごろに終焉を迎える。その後各地に文化が栄える。北海岸ではシカン、チムー文化、中部海岸ではチャンカイ文化、南海岸ではイカ・チンチャ文化である。シカン文化は冶金技術に長けた文化で、この技術がシカンに続くチムー、そしてそれを滅ぼしたインカ帝国へと続いていく。シカン文化のロロ神殿からは沢山の金の副葬品とともに王を思われる逆さまに座っているミイラが発見され話題をよんだ。シパンを滅ぼしたチムー王国はチャンチャンを中心に栄えたが、1400年ごろに発展をしたインカ帝国により滅ぼされた。

タワンティン・スーユ

 インカ帝国とはどういう国だったのか?謎に満ちた国家である。インカ帝国とはスペイン人により名づけられてものであり、当時の名前を「タワンティン・スーユ」という。4つの州という意味があり、この国を4つの地域に分けて統治していたことが、その名前の由来である。この定刻の発祥伝説はいくつかある。タンク・トッコという丘の三つの窓から創造者ビラコチャが4人の兄弟と4人の姉妹を引き出した。チチカカ湖の太陽の島からマンコ・カパックとママ・オクリョが旅を続け、金の杖を投げ地面にその杖が吸い込まれたところ(クスコ)を都に定めた、などである。この帝国が拡張を始めたのは、クスコへ襲来したチャンカ族を撃退した9代皇帝パチャクテック・ユパンキの時代からである。パチャクテックは偉大な皇帝である。急速に膨張した領土にたくみな政治、社会政策をほどこして、大帝国のいしずえを築きあげた。首都クスコの本格的な建設や、さまざまな皇室の礼典儀式の多くは、彼の時代に定められた。太陽の神殿の建設、太陽の処女の制度もこの時期である。
 パチャクテックの晩年、その子トゥパック・ユパンキがインカ軍の指揮官に任命され、さらに征服は進み、北ペルーの海岸地方にまで及んだ。トゥパック・ユパンキの即位とともにインカ帝国は最盛期に入る。エクアドルのキト及び海岸地方を征服し、チチカカ湖の南、アルゼンチン、チリの北部を帝国の版図に加えたのも彼の時代だ。だが、クスコの東側のアンデスを越え、アマゾン流域の低湿地密林地帯に征服を試みたが失敗に終わっている。彼の時代は、パチャクテック時代に定められた政治、社会組織をさらに強化した。サクサイワマンの砦もこの時代に完成されたと言われている。
 トゥパック・ユパンキが死んで、その子ワイナ・カパックが第十一代皇帝になったのは1493年のことである。帝国の拡張はその極限に達していたので、彼が征服者として版図に加えたのは、エクアドルの南海岸とキト以北のわずかな地域だけだった。彼の時代の晩年、南に北に白い人間があらわれたという知らせがあり、首都クスコを始め各地で得体のしれない熱病が発生して、多くの人が亡くなっていった。旧世界からはこばれたビールス性疾患が、人間より一足さきにインカ帝国まで広まってきたのである。アンデス地方には1530年には約1600万人が住んでいたが、1570年には274万人まで人口が落ち込んだ。この熱病は、ついに皇帝自身をもおそった。世継ぎを決めることなく他界したので、その子のワスカルとアタワルパの対立を引き起こした。
 この対立に勝利したのは、アタワルパだった。両軍の部隊がヤナマルカで対決し、アタワルパ軍が勝利した。その後、クスコに攻め入りワスカル軍を破り、ワスカルを捕虜とした。その彼も1532年保養していたカハマルカに進軍してきた少数のスペイン軍の捕虜となった。

スペイン人によるタワンティン・スーユの征服

 ここでインカ帝国を滅ぼしたスペインの征服者についてふれておこう。1524年パナマ。三人の男が相談に熱中していた。ひとりは聖職者でエルナンド・デ・ルケ、あとのふたりは軍人でディエゴ・デ・アルマグロ、そしてフランシスコ・ピサロである。エルナンド・コルテスがメキシコのアステカ王国を征服して莫大な黄金を手に入れた、という知らせが流れ、この三人も「第二の黄金帝国」征服の相談を行っていたのである。フランシスコ・ピサロがアタワルパをカハマルカで捕虜するまで、8年の歳月がかかっており、その間に3回の航海が行われた。
 最初の航海は1524年、プンタ・ケマーダというパナマからわずか300キロほど南の岬に過ぎなかった。
  二回目の航海は1526年のことである。バルサ船(イカダ)に乗ったペルー地方の商人と出会い、黄金帝国の情報を得たのである。しかし、航海は苦難の連続だった。食料も底を付き、アルマグロがパナマに補給に戻りことになったが、パナマ総督の命により航海の中止が決定され、救援船が現地へ向かった。ガジョ島に残っていた一同は救援船の到着に躍り上がってよろこんだが、ピサロは救援船でパナマに戻ることを拒絶、砂上に東から西に線を引き、「南にあるのは苦難と飢え、敗走と死、北にあるのは安楽と快楽。南にあるのは黄金帝国の富、北にあるのはパナマとその貧乏生活。どちらを選ぶか諸君が決めたまえ。」と言って自ら南側に立った。そして13人の者が残った。
 そのころパナマでは、アルマグルの奔走により6ヶ月の期限付きで航海の許可がおり、ピサロ一行を収容して航海を続けた。この航海で黄金帝国の片鱗を見つけたのである。このピサロの報告は、パナマのひとたちを熱狂させた。
  そして三回目の探検に出発したのが1531年のことである。ペルー北部に上陸、スペイン人による都市ピウラが建設せれたのは1532年半ばであった。その頃、ワスカルとの戦いに勝利したアタワルパはカハマルカに戻っていた。
 1532年9月24日ピサロはアンデスの高原に向かって進軍を開始した。11月15日カハマルカに到着。そして翌日、アタワルパとの会見の時に生け捕りにした。この日スペイン軍が虐殺したインカ兵は2000人を数えた。1532年11月16日、インカ帝国の事実上の滅亡の日である。
 囚われの身となったアタワルパは、自分の身代金として部屋一杯分の金と二杯分の銀とを支払うことを約束した。見る見るうちに一杯になったが、アタワルパは処刑されてしまます。しかし、アタワルパの勇将たちは、エクアドル軍の大部隊を率いて健在だった。しかし、スペイン人は二つに分裂し、その各地にも多くの敵を抱えたインカ帝国の実情をすばやく読み取り、巧みに国内の政治的対立を利用して、ペルー全土の支配を企てた。
 まず彼らが実行したのは、クスコ派のマンコ・インカを即位させ、その威光を借りて各地の首長たちの忠誠心を確保しようとした。しかし、マンコ・インカに対して、ひどい侮辱を与えたため、1536年マンコ。インカはクスコを脱出し反乱を企てた。数万のインカ軍がクスコを包囲したが、町を陥落させることができず、ビルカバンバ川の流域に退いて、そこからゲリラ戦でスペイン人を攻撃した。
 1544年マンコ・インカは秘境ビルカバンバに潜入してきたスペイン人に暗殺されが、彼の三人の子供が次々にインカの王位についた。そのうち三代目のトゥパック・アマルー・インカの時代に、ビルカバンバで布教していた宣教師の殺害事件を契機として、追討軍がビルカバンバの奥地に入り、トゥパック・アマルーを捕らえた。1572年9月24日クスコの広場で処刑。彼の名はアンデス人の抵抗運動の象徴となって後世に受け継がれることになった。

スペインによる植民地時代と独立

 スペインに征服されたアンデス地方には、ペルー王国が形成され、国王の名代である副王によって統治された。副王を補佐して、アウディテンシアという議会が設けられ、その構成員であるオイドールは王室によって任命された。ペルー王国の範囲は、ポルトガル領のブラジルを除くほぼ南米全域に及ぶ。それはあまりにも大きな版図だったので、各地にアウディエンシア(管轄区)が作られ、事実上その地域の統治が委任された。
1545年現在のボリビア領ポトシで大銀山が発見された。ここでの労働のために多くの先住民が導入された。ポトシ行きは死を意味し、多くの人がその過酷な労働のために命を落とした。その労働力の不足を補うために、アフリカ諸国から黒人の奴隷が召集された。現在の実質上のボリビアの首都ラ・パスはポトシの銀をカヤオ港(リマ市に隣接)へ運ぶ途中の中継地点として建設された都市である。
 このような過酷な状況下において、先住民の叛乱も相次いだ。その中でも一番大きな叛乱は、1780〜1782年にかけて行われた、ホセ・ガブリエル・コンドルカンキの叛乱(トパック・アマルー二世の叛乱)である。コンドルカンキはインカ最後の皇帝となったトパック・アマルーの子孫にあたる。一時はクスコを包囲するまでに拡大したが、1781年4月にコンドルカンキが捕らえられ、同年5月にクスコの広場で処刑された。その後、従弟のディエゴ、息子のマリアーノに引き継がれたが、1782年にはスペイン王党軍により鎮圧された。
 この叛乱の期間中の死者は11万人に達したと伝えられる。19世紀初頭の独立戦争時の死者が2万人弱だったことを考えると、この叛乱がいかに規模の大きいものであったのかがうかがえる。1996年に日本大使公邸を占拠したMRTA(トパック・アマルー革命運動)の名前は彼から取られている。
 1800年代にはいると南米各地で独立運動の機運が高まってきた。独立運動はもっぱらクリオーヨ(南米生まれの白人)が主役となって引き起こされた政治革命である。彼らはペニンスラールと呼ばれる本国人とは区別され、植民地の行政や政治に参加する資格を認められなかった。簡単にいえば、このクリオーヨたちが、政治的な自由を求めて起こしたのがラテン・アメリカの独立運動である。
 独立運動は、アルゼンチン、ベネズエラのような僻地で展開された。僻地においてはスペイン王室の支配や統制もゆるやかであり、ヨーロッパ諸国との密貿易も盛んであったから、クルオーヨたちも独立によって自由な貿易権を手に入れたいという願望を強く持っていたのである。それに対して、メキシコやペルーのようなスペイン支配の拠点では、植民地体制も強固であり、スペイン人もクルオーヨも保守的な傾向が強かったので、独立運動も直線的には進行しなかった。
 1809年現在のボリビアでクリオーヨがクーデターを起こし、政治委員会を結成し、本国から独立を企てたが、リマから送られた軍隊により粉砕された。
 1816年7月9日、リオ・デ・ラ・プラタ連合州が成立して、アルゼンチンの独立運動にひと区切りつくと、独立の英雄ホセ・デ・サン・マルティンは南アメリカの真の独立を達成するために、スペイン勢力の中心であるペルーの開放を実現しようと企てた。
 サン・マルティンはチリの解放を成し遂げると、リマの南の海岸ピスコに上陸し、陣を敷いた。アレナレス将軍をペルー高地に向かわせ、リマとの連絡を絶ち切るとともに、自分は北海岸に進出して、北海岸の農業地帯からの食料供給を遮断した。
高地ではアレナレス軍がパスコで王党軍を破った。情勢不利と悟ったリマの副王ラ・セルナは、軍を率いて高地地方に退却し、サン・マルティンはリマに無血入場し、1821年7月28日に独立宣言を行った。
 その後も独立軍とスペイン王党軍の戦いが続くが、1824年12月9日中央高原のワマンガ市の近くのアヤクーチョ荘園で撃退し、独立軍が勝利し、副王ラ・セルナは捕虜となった。その後、1826年カヤオの最後のスペイン軍が降伏し、ペルー解放は完了した。

独立後のペルー

  1845年にはラモン・カスティージャが大統領になり、二期大統領をつとめたが、1867年まで事実上ペルーの政治を支配した。ペルーに初めて政府らしい政府をつくったのは彼である。初期の政権のとき、彼ははじめて国の予算案を議会に提出し、その3年後には統計局を設け、人口、農業、工業、その他の産業、商業、資源に関する調査を行わせた。
 カスティージャ政権で重要な役割を果たしたのはグアノである。グアノは堆積硬化した海鳥の糞で窒素と燐を多く含んで、優良な肥料となる。このグアノの収益のおかげで、社会政策、債務の支払いなどが可能になった。また硝石の開発も始まっており、1860年ごろまでには金額にして300万ドルが生産されており、年ごろに生産量は増していた。また、リマ市は、カスティージャの時代に、道路の整備、ガス灯の設置、上下水道の整備が行われた。
 1879年チリ軍はボリビアに攻撃をしかけた。ボリビアのイラリオン・ダサ大統領が、チリとの協定に反して、硝石の輸出税を増額したが原因だった。ボリビアは当時太平洋海岸まで領有し、硝石地帯を支配していたが、硝石の採掘はほとんどチリ人投資家に委ねられていた。彼らが増税に反対したため、ボリビア政府は硝石採掘場を接収した。これにチリ政府が反応したのである。
 当時ペルーはボリビアと同盟しており、ペルー政府代表がサンチャゴに赴き、チリ政府と交渉したが、結果としてペルーがボリビアとの同盟を解消しなかったので、チリは1879年4月3日ペルーに宣戦布告した。ペルー、ボリビア、チリの三国を巻き込んだこの戦争は、太平洋戦争と呼ばれる。
 この戦争の緒戦で活躍したのが、ペルー海軍のミゲル・グラウであるが、10月8日アントファガスタの北のアンガモスの海戦で戦死した。この海戦で敗れたペルーは制海権を失った。陸上ではペルー軍は砂漠の中で孤立し、5月のタクナの戦い、6月のアリカの戦いでも敗退した。総司令官ボログネシは戦死し、指揮官アルフォンソ・ウガルテはエル・モロの頂からペルー国旗を持って飛び降り戦死した。チリ軍は1880年半ばまでにアタカマ砂漠の硝石地帯をほぼ占領し優位に立った。
 1883年アンコンで平和条約が締結され、タラパカはチリ領となり、アリカ(現チリ領)とタクナ(現ペルー領)は10年間チリの管轄下に置かれてから、その後の住民投票で帰属が決まることとなった。
 戦後1895年までは、復興のペースが遅かったが、カセレス、ピエロラの時代の政治の安定が幸いして、経済が伸び始め、主要物の輸出は戦前の水準までに回復した。また、鉱業部門の発展、特に銅の生産がめざましかった。アマゾンのゴム生産もブームとなった。 
 1899年には日本から初めての移民790名を乗せた佐倉丸がカヤオ港に入港した。多くがリマの南に位置するカニェーテ村に入植した。カニェーテには現在ペルーで唯一の仏教の寺院があり、多くの日系の方が在住している。
 初めは農業労働者として農作業に従事していた日本人移民であるが、財産を少しずつ蓄え、都市部で商業部門での進出を果たして行った。が、閉鎖的な日系の社会を形成したため、ペルー人の反感を買い、排日運動へと展開し、1940年には日系人の商店の焼き討ちなどの暴動に発展した。
 1941年12月7日(日本時間8日)に始まった太平洋戦争により、ペルー人の日本人を見る目は一層厳しくなった。1942年1月24日、ペルー政府は日本政府に国交の断交を宣告し、日本人の有力者の身柄を拘束して、北米への強制送還を開始した。この人数は1800人近くに上る。また、一般の在留邦人にも集会禁止が通達され、無許可の旅行も禁止された。これももとづき、日本人所有財産の凍結が実施され、日本人経営の商店は大打撃を受けた。開戦時に20校以上あった日本人学校も閉鎖され、日本語による授業も禁止された。そして、1945年2月12日日本に宣戦布告をするにいたる。
 ペルーは第二次世界大戦中、直接枢軸国との戦闘は行わなかったが、隣国エクアドルとアマゾン地域の領有をめぐる紛争が武力衝突へと発展した。1941年に国境のいくつかの地点で小競り合いが起こったが、軍備の上で優勢なペルー軍がエクアドル軍を制圧し、アメリカ、ブラジル、アルゼンチン、チリの仲介で行われたリオ・デ・ジャネイロにおける和平交渉で、約25万平方キロメートルの領有をエクアドルに認めさせた。この(ペルーに有利な)アメリカ主体の仲介は、先に述べた有力日本人のアメリカへの強制送還との取引があったとの見方がある。

第二次世界単戦後のペルー

 このころのペルーは民政と軍政を繰り返しており、大戦終結間際にはブスタマンテが大統領に就任、ブスタマンテ失脚後は、マヌエル・オドリーア将軍が大統領の職に就いた。その後、1956年の選挙では、1939年から1945年まで大統領を勤めたマヌエル・プラドが大統領の座に返り咲いた。
 1962年7月18日大統領の任期が終わる10日前、数人の軍人が大統領府を占拠して無血クーデターに成功し、プラドはパリに追放された。その首謀者ペレス・ゴトイは軍事委員会の議長の職に就任した。軍事委員会のもとに、開発計画協会、廉価な住宅購入のための低利子融資銀行、スラム街撤去を目指す住宅機関が置かれ、ペレス政権は大きな功績を残した。この時代に始まった多くの計画や企画は、後の1964年の農業改革の基礎となった。
 1963年の選挙で人民行動党のフェルナンド・ベラウンデがキリスト教民主党の支持のもと、アプラ党のアヤ・デ・ラ・トレと前大統領のオドリーアを打ち負かし当選した。ベラウンデは軍隊の民主化のための改革を行い、ペルー全国で軍の将校達は共同体開発プロジェクトに参加し、技術将校たちは道路建設などの技術指導にあたった。
 1968年ベラウンデの石油政策のつまずきから、軍のクーデターが起こり、ベラスコ・アルバラード将軍が大統領の座に就いた。ベラスコ政権は、寡頭支配体制の基盤であった大土地所有制を解体するための農地改革、基幹産業の国有化、労働者の経営参加を促進するための工業共同体部門の設立などを実施した。
 その後、ベラスコ政権は1975年8月に軍内クーデターにより、フランシスコ・モラレス・ベルムデス将軍により倒されて、ベルムデス将軍が大統領に就任した。ベラスコ政権下で活発化した大衆のイニシアティブを抑制するとともに、経済の自由化と民政移管を推進した。そして、1979年の新憲法の制定を経て、1980年に実施された大統領選挙において、中道右派の人民行動党が勝利し、右派のキリスト教人民党との連立政権が誕生し、ベラウンデが大統領に返り咲いた。
 ベラウンデ政権は、基本的には経済の自由化を推進したものの、党内に国際金融界協調派と緊縮財路線に反発する国内利益重視派が対立し、一貫した経済政策が取れなかった。1980年にはセンデロ・ルミノソ、1984年にはMRTAが武装闘争を開始した。政治面では中道左派のアプラ党、左派の統一左翼が勢力を拡大した。
1985年の大統領選挙では、経済の自由化を批判するアプラ党のアラン・ガルシア政権が誕生し、統一左翼内の穏健派の協力を得て、ナショナリズム色の強い政策を実施した。対外債務に関しては、債務の支払いを年間輸出額の10%以内に制限すると宣言し、IMF等の国際金融機関との対立を招いた。1987年までは成長率9%を達成したが、外貨準備が払底してからは、財政が破綻し、政権末期に公式統計では7000%を超えるパイパーインフレに見舞われた。

日系人大統領アルベルト・フジモリ

 このような厳しい状況下で1990年の大統領選挙が行われた。選挙戦序盤は泡沫候補のひとりだったアルベルト・フジモリが、第一回目の投票でマルオ・バルガズ・ジョッサに次いで第二位につけた。バルガズ・ジョッサも憲法で規定する過半数には足しておらす、決選投票へともつれ込んだ。第一回目の投票で第三位、第四位になったアプラ党、統一左翼が、フジモリ支持に回ったため、民政では初めての非白人層からの大統領となった。
 アルベルト・フジモリが就任した頃、ペルーは多くの課題を抱えていた。対外債務問題、4桁のハイパーインフレを招いている経済問題、センデロ・ルミノソ、MRTAの活発化といったテロ問題などである。国内経済の安定のために、「フジ・ショック」と呼ばれる一連のショック療法を行った。(選挙戦ではフジモリはショック療法には反対の態度を示していた。)なかでも大幅な価格調整によるインフレ抑制策は、庶民の生活を直撃した。ガソリン価格は32倍、基本的な食料品は3〜5倍の値上げであった。その他、公共料金の値上げ、課税、徴税の強化、財政支出の削減、最貧層救済のための緊急プログラムなど矢継ぎ早に行われた。これらの政策により1991年にはインフレは一桁台に落ち着いた。
 1992年4月5日軍の同意を得てクーデター(自主クーデターと呼ばれる)を行なって、憲法を一時停止し、国会を閉鎖した。民主主義の基盤が弱いペルーで、思い切った改革を行なうには、軍を背景にした権威主義的な政治体制が必要だと判断したのだ。同年11月に憲法制定議会の選挙が行なわれ、その結果生まれた1993年憲法は行政府の力が強化され、大統領の連続再選が認められた。
 その後、テロ対策法と投降者減刑法の二法を公布してテロ対策を強化し、テロ容疑者の裁判を一般裁判でなく、軍事法廷での覆面裁判にかける措置をとった。この法により多くのテロリストの投降が相次いだ。1992年9月にセンデロ・ルミノソの最高指導者アビマエル・グスマン・レイソノを逮捕した。同年他方のテロ組織MRTAの最高幹部ビクトル・ポライ・カンポスも逮捕した。
 新憲法のもとで行なわれた1995年の大統領選挙では、フジモリは前国連事務総長バビエル・ペレス・デクエアルを第一回目の投票で大差をつけ破り、第二期政権へと突入した。
 1996年12月17日ペルーの日本大使公邸をMRTAのコマンドが占拠し、翌年4月22日まで人質をとって立てこもった。この日、天皇誕生日を祝う、ナショナルデーのレセプションが行なわれ、日本人、ペルー人(日系の方を含む)、各国の大使館関係者など600名以上の人が大使公邸を訪問していた。午後8時20分ごろ、ネストル・セルパ・カルトリーニに率いられた14名のコマンドが強襲、621名の人が人質となった。その日の内に、女性、高齢者は解放され、その後部分的に開放されたが、最終的に日本人民間人を含む72名が人質として残った。
 1997年4月22日ペルー軍特殊部隊は、大使公邸へ強硬突入し人質を解放した。この強硬突入での死者はMRTA全員の14人、特殊部隊員2人、人質1名の17名を数えた。日本人の人質には負傷者はいたが、命を落とした者はいない。
 2000年に大統領選挙が行なわれ、アルベルト・フジモリが決選投票でアレハンドロ・トレドを僅差で下し、大統領に再任した。しかし、選挙に不正があったとの批判が相次ぎ、社会の混乱を防ぐため、2001年に再度選挙を行なうことを発表。自らは出馬しないと表明した。
 同年9月に腹心のモンテシノ国家情報局特別顧問の不正が発覚し、窮地に追い込まれ、ブルネイで開かれたAPECの首脳会議に出席後、日本に立ち寄った際に、身の安全が保障できないとし、大統領を辞任、日本に滞在した。第一副大統領、第二副大統領も辞任したため、憲法に規定によりパニアグア国会議長が臨時大統領の職に就いた。
 2001年の選挙では、アレハンドロ・トレド、前大統領のアラン・ガルシア、ルーデス・フローレス女史の3つ巴の戦いとなったが、アレハンドロ・トレドが勝利を収め、大統領に就任した。
 そして、今年2006年の大統領選挙では、民族主義者の退役軍人オヤンタ・ウマラ(ペルーのための同盟)とアプラ党党首アラン・ガルシア、ルーデス・フローレス(国民統合)の3つ巴の争いとなり、第一回に投票では、第一位ウマラ、第二位ガルシアとなり、決選投票でガルシアが僅差でウマラを下し、第二期目(第一期は1985年から1990年)の政権を担当することとなった。

 

 

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