まだまだある!ペルーの遺跡
遺跡はイマジネーション |
「訪問したい世界遺産」の人気ナンバーワンマチュピチュ遺跡は、まさしくペルーの歴史遺産の巨星にふさわしく、世界中の多くの観光客を惹きつけてやみません。インカ帝国時代の名残を今に伝えるマチュピチュ遺跡、またインカ帝国の都として栄えたクスコ市内や近郊の遺跡などは、しかしながらペルーの長い歴史を鑑みた場合、比較的新しい文化遺産であることに異を唱える人はありません。
インカ帝国以前の太平洋沿岸部や山間部のそれぞれの文化・文明の融合・結晶が高度なインカ文明を生み出したのだとすれば、インカ以前のプレインカと呼ばれる古代文明への造詣を深めることは、マチュピチュが現代に生きる我々に託した謎を解く鍵を与えてくれるかもしれません。
弊社パッケージツアーP101「ペルー11日間 遺跡の宝庫・古代アンデス文明を訪ねて」は、ペルーの魅力に憑かれたペルー再訪者はもちろんのこと、「暗黒の文明」といったやや偏見的な西欧的観点からではなく、南米大陸に花開き散っていった高度な古代文明に興味のある方にもおすすめのコースです。
このコラムでは、ツアーで訪問する遺跡をはじめ、ペルーに点在する他の遺跡についてご紹介しましょう。「新大陸」南米は、ヨーロッパからの入植以前は「非文明圏」だったという、欺瞞の歴史認識が崩れつつある現在、これら遺跡達の無言の訴えに耳を傾けてみませんか? |
第一回
カラル遺跡
1994年より現在まで考古学チームによる発掘作業が続けられている遺跡。リマから北に約200キロいったスーペ渓谷にある。
約5000年前(紀元前3000年頃)の遺跡とされ、さらに遺跡の解明が進むと、南米大陸最古の文明の存在を実証すると共に、エジプトやメソポタミアといった古代文明の発祥とも時期をさほど異にせず、南米大陸にも既にこの時期に文明の開化を迎えていたという、従来の世界史観をも覆す可能性がある。
165エーカーに及ぶ広大な遺跡敷地内には、7つの主要なピラミッドや集会場跡、階段、住居跡、半円形劇場跡などが発掘の結果姿を現した。特に高さ70フィートのピラミッドに関しては、炭素鑑定によると推定4700年前のものとされ、エジプトのピラミッドやメソポタミアのジグラッド建設とほぼ同時期である。半円劇場跡から骨で作った楽器(ケーナ)が出土し最近話題になった他、キープ(結縄)と呼ばれる紐を組み合わせて、情報伝達に使用した文字の代わりの道具も出土している。キープは4500年以上後のインカ帝国時代まで、貴重な情報伝達手段として南米大陸全土で活用されていた。
1994年より現在まで発掘調査の中心人物である、サンマルコス大学で教鞭もとるペルー人考古学者ルース・シャーディー(Ruth Shady)さん は、「南米大陸の多くの地方文明やインカ文明に多大な影響を与えたと思われるカラルの謎を解くことは、南米大陸すべての古代文明の謎を解く大いなる鍵になるに違いない」と話している。
リマよりパンアメリカンハイウェイを北に約3時間走り、未舗装の道をさらに40分ほど進むと、古代への情熱を誘うカラル遺跡の到着だ。敷地内にはトイレと駐車場程度で、レストランの類はないので、リマから弁当持参で出かけよう。広い遺跡などで、1時間半ほど見学時間にあてよう。英語・スペイン語ガイドは敷地内にいるが、日本語でしっかりと説明を聞きたい方は、弊社のリマ発日帰りカセットツアーをご利用することを、おすすめする。 |
第二回
パラモンガ要塞
盛者必衰の理・・・
リマよりパンアメリカンハイウェイを北に約200キロ走ると、バランカ州都のバランカの街がある。バランカ湾に面した小さな地方都市を古代への情熱溢れる考古学者の間で有名にしたのが、チムー帝国時代の要塞跡パラモンガである。
紀元1000頃、ペルー全土の始めての文化的政治的統合を果たしたワリ帝国が、約300年の栄華に終わりを告げる。その後ペルー各地では様々な地方帝国が群雄割拠するが、シカンに続いて北部沿岸地域に支配力を持っていたのが、チムー帝国である。紀元1100年ごろからインカ帝国に征服される紀元1300年頃まで、チムー帝国は世界遺産にもなっているトルヒーヨのチャンチャンを都に、北部海岸地域一帯に多大な影響力を持っていた。
チムー帝国の最南の辺境にして最前線基地だったのが、パラモンガの要塞である。この要塞は、チムー帝国時代の名残をとどめるペルー国内の遺跡の中でも、最も精度の高い遺跡として知られている。パラモンガ要塞は、チムー帝国軍の最前線基地としてはもちろん、どうやら実際には寺院としての役割も果たしていたようである。インカ帝国に征服された後は、もっぱら太陽の寺院として使われていた痕跡が残っている。パラモンガというのは、どうやら当時北部海岸地域で使われていたチムー語による、当時近郊に存在した同名の街の名前に由来するようであるが、何を意味するのかは、未だ知られていない。
要塞は4段からなるピラミッド状を成しており、要塞への入り口は南角からの一箇所のみ。それぞれの四つ角には控え室のような部屋があり、兵隊の見張り場ではないかといわれている。また、空から見たピラミッドは、ペルーを代表する動物リャマの姿を現しているという説もある。北角部分がリャマの頭で、西側二角がリャマの体だというのだが、建設時に目論みがあったかどうかは定かでない。
要塞は高さ30メートルにも及ぶため、パンアメリカンハイウェイからでもその威容を眺めることは可能だ。調査によると、要塞の当時の壁の色は黄色で、コンドルやネコ科の動物を象徴した絵が描かれていたようだ。比較的保存状態の良い北角の小部屋には、19センチ四方の紅白のチェス盤のような柄が描かれた壁や、残忍性の象徴かといわれているヘビの絵が描かれた壁などが残っている。南角の入り口も保存状態がよく、古のチムー帝国の栄華とインカ帝国征服による衰亡を偲ぶには、格好の遺跡といえよう。 |
第三回
ラクチ遺跡
名もなき民の信仰心の遺産
インカ帝国時代の都クスコより南へ走ること120キロ、時間にして約2時間半で目指すラクチ遺跡のあるカチャに到着だ。カチャは標高約3500メートルのビルカノタ川沿いにアル小さな町だ。ラクチもインカ帝国時代まではカチャと呼ばれていたようである。
ラクチ付近には休火山キムサチャの火山口があるため、かつての噴火の名残である黒い火山岩が沢山転がっている。
ラクチはインカ帝国時代のタンボと呼ばれる宿場町だったようである。街としての機能に不可欠な要素はだいたいが揃っていたようで、住居群や通り、水道、農耕地、市場、食料貯蔵庫、墓地、寺院、宮殿や天文観測所といった跡が遺跡として残されている。
しかし、このラクチ遺跡を重要たらしめている最も大きな理由は、ビラコチャの寺院の存在である。スペイン統治以前の建物としてはかなり大きな規模の寺院である上に、円形の形で4つの本堂を持つ唯一の寺院であることも明記せねばならない。インカ帝国の範土だった場所からは多くの寺院跡が見つかっているが、ラクチの独特の円形をした寺院は、マチュピチュ、サクサイワマン、オャンタイタンボなどどこを探しても未だに見つかっていない。カンチャスという住居群、コルカス(食糧貯蔵庫)、宗教的色彩を帯びた井戸や様々な墓地と合わせて、ビ ラコチャの立派な寺院跡からも、このラクチがかつて重要なタンボ(宿場町)であったことをうかがい知ることが出来る。
ビラコチャはインカの民の創造主とされ、寺院は長さ92メートル、高さ推定約15メートルの規模を持ち、屋根はイチュと呼ばれる藁で出来ていたようである。壁は基盤の3メートル位まではアドベという日干し煉瓦で造られている。
スペインによって征服される以前の、インカ帝国下の一宿場町にひっそりと残されたビラコチャの寺院。インカ、スペインと征服者は代わっても、常に「支配される側」であり続けた名もなき民たちの、穏やかな、しかし篤い信仰心の遺産ともいえるラクチ遺跡。クスコ〜プーノへの移動の際にちょっと立ち寄ってみたい場所である。 |
第四回
セチン遺跡
解明の待ち遠しい魅惑の遺跡
ペルーが遺跡の宝庫であることは、一部の専門家を除くとまだまだ一般的には知られているとは言い難い。「ペルーといえばインカの遺産マチュピチュ」というステレオタイプの公式は、ややもするとプレインカと呼ばれるインカ文明以前の高度な文明の存在すらかき消してしまいかねない魔力を持っている。これから紹介するセチン遺跡は、その魔力を吹き飛ばすほどの威力を秘めていると言っても過言でない、南米大陸に花開いた極初期文明の遺産である。
セチンはペルーの北西海岸部に位置し、リマからは約370キロ、先に紹介したパラモンガ要塞の北170キロの場所にある。セチンアルトと呼ばれる遺跡群全体で10平方キロメートルと、カスマ渓谷沿いの広大な面積を誇る。セチンアルトは、セチンバッホ、タウカチコンカンとセロ・セチンという3つの遺跡の群れによって構成されており、古の定住地跡のようである。
長い間紀元700〜1000年頃に栄えたワリ帝国の遺跡だと推定されていたセチンだが、最近の炭素調査の結果、どうやら紀元前1300年〜1700年頃のものであることが判明して、学術家を大いに驚かせた。紀元前1300年〜1700年といえば、アンデスの高地に栄えたチャビン・デ・ワンタルの遺跡とほぼ時期を同じくし、チャビン文化が南米大陸の文明の夜明けだとする定説を根底から覆すことになるからだ。現在も発掘調査と科学的解明が続けられており、近い将来先述したカラル遺跡と合わせて、南米大陸のみならず世界史の一ページが新たに塗り替えられるかもしれない。一日も早い解明を世界中の専門家や遺跡愛好家が固唾を飲んで見守っている。
セチンアルトの建物は、石とアドベ(日干しレンガ)とで造られている。3つの遺跡群の中で、最も魅惑的なのがセロ・セチン(セッチンの小高い丘)である。何百枚もの巨大な石版を組み合わせて造った壁に囲まれた建物で、後のインカ帝国の巨石文明の片鱗を窺うことが出来る。またほとんどの石版には、戦士や囚人、人間の体の部位の絵などが彫刻されており、この時代に既に相応の社会生活が営まれていたことがわかる。
セロ・セチンからのカスマ渓谷の緑豊かな眺めも素晴らしく、ずっと後代のマチュピチュの謎解きにも、是非立ち寄りたい遺跡である。 |
第五回
チャウチージャの墓跡
ミイラの横たわる死者の町
荒涼とした砂漠に散乱した人骨や頭蓋骨。地上絵で知られるナスカより南に28キロ、かつて墓地だったと思われるチャウジージャが横たわる。ここは紀元1000年頃のインカ・チンチャ文明時代の墓地というより、いわばネクロポリス=「死者の町」だ。この土地の乾燥した砂漠の気候が、何世紀もの時を経て当時の墓地群そのままの姿を留めている。
人骨や頭蓋骨のみならず、ミイラに付着した髪の毛や着物、さらに一緒に埋葬したと思われる陶器などが無言で横たわっており、訪れるものを否が応でも厳粛な気持ちにさせる。プレ・インカ、インカ他の墓地の例外にもれず、このチャウチージャも何十年にも渡ってワケーロと呼ばれる墓泥棒によって、多くの埋葬品やミイラが持ち去られている。それでも未だに数千に及ぶ墓がそのままの姿で残っており、紀元後1000年頃とおぼしき墓地のオリジナルに眠るミイラや、副葬品である陶器などを当時のあり様で見学できるのは、数あるペルー国内の遺跡の内でもこのチャウチージャのみである。
「死者の町」に無言で散乱する人骨や頭蓋骨は、しかし、カンボジアのプノンペン近郊のいわゆる「キリングフィールド」(ポルポト政権時代の虐殺の跡)のような、残酷さやおぞましさを感じさせる類のものではない。むしろ見るものを厳粛な気持ちにさせるし、当地の独特の気候・風土によって何世紀もの歳月を経てもそのままの姿を留めているということに、純粋に感動すら覚えるのである。墓地の中には子供のものと思われるミイラだけが横たわっているものや、他の墓地に比べてミイラの着ている衣装が鮮やかなものなど様々である。
1997年から一般公開され始めたばかりの、日本人観光客にもまだまだ馴染みの薄い場所であるが、生まれては死ぬという自然の摂理の下、当時の人々がどのように「最期の儀式」を執り行ったのかを垣間見ることは、その類の情報が極端に少ないだけに興味の尽きないテーマかと思われる。 |
第六回
パルドネス遺跡
ナスカの近郊には先述したチャウチージャの他に、パルドネスというインカ帝国時代の遺跡が残っている。パルドネスはインカ帝国時代の太平洋沿岸部における行政管理局の一つだったと推定されている。行政管理局は土台となる基礎部分は石で作られ、壁はアドベと呼ばれる日干しレンガで出来ている。行政管理局の建物とその周辺には、広場や貯蔵庫、宗教儀式を執り行う場所や壁がん、さらにひし形に整えられた窓枠などが残されている。
しかしクスコやサクサイワマンなどで見られる「カミソリの刃一枚通さない」精巧さで組み上げられたインカ帝国時代の遺跡と比較した場合、その精緻さにおいてあまりにも見劣りしてしまうのが非常に残念である。インカが他の地方文明を征服していった際に、土着の慣習や技術・治世形態などを巧みに自らの文化に取り込んで融和していったことはよく知られている。インカが極短期間にその勢力範囲を何倍にも拡大できた背景には、征服地土着の風俗や慣習を自らのシステムに取り入れていく柔軟性にあるといっても差し支えはないであろう。このパルドネスも例外に漏れず、インカがこの地を征服した際に、アドベ(日干しレンガ)を積み上げる建築方法が一般的だったことから模倣したようである。しかし、元来インカが持っていた独自の技術でないため、完成した建物は何世紀もの時代を経てかなりの部分が壊れてしまっている。
当地のずっと以前のナスカ時代のものとおぼわしき精緻な織物や陶器、日干しレンガの建物の跡を見るにつけ、ナスカ文化の担い手である人々が、その土地の資源を最大限に活用する術を熟知していたことがひしひしと感じられる。征服者インカにも模倣できないほど高度な文化が花開いたナスカの地。世界的に有名な地上絵の観光と合わせて、インカ以前のペルーに花開いた高度な文化の生き証人であるパルドネス遺跡も是非立ち寄ってみたい場所のひとつである。 |
第七回
タンボ・コロラド
インカ帝国の盛衰と運命を共にした宿場町
蒸留酒で知られるピスコから40分ほど走ったウマイ地区に今回紹介するタンボ・コロラド遺跡はある。タンボ・コロラドは1400年代の中頃に造られた、インカ帝国時代の宿場町である。タンボとは「宿場」を意味し、コロラドは「鮮やかな赤に彩られた」といったところの意味である。インカ帝国時代、この地域を通過する者のチェックポイントすなわち関所として機能していたようである。1400年代半ばといえば第9代パチャックテイ皇帝の下、インカ帝国が急にその範土を拡大していった時期にあたり、領土拡大に伴う領域内の通行を管理する機能が求められるようになったとしても不思議ではない。
タンボ・コロラド「赤い宿場」の通り、アドベ(日干しレンガ)を積み立てて築き上げた建物の壁は赤と若干の黄色とで塗られており、現在でも当時の面影を残している部分もある。建物内には浴場や大小様々の数々の部屋、祭壇、寺院、兵舎や倉庫といった大抵の設備を備えている。この関所の住人によって経済活動や宗教活動、行政活動、さらに軍事活動まで営まれていたのではと唱える学者も数多い。四角い窓また窓がまるで装飾のような、赤と黄色に彩られた壁に囲まれた威容を誇る建物を眺めていると、なるほど単なる関所というよりは行政 局のような、もう少し重要性を帯びた場所だったように思えてくる。
このタンボ・コロラド、ペルーの沿岸地域におけるインカ帝国時代の遺跡としては、最大級の大きさを誇っている。また保存状態の良さという点でも、沿岸地域髄一といって過言ではない。
スペイン軍によってインカ帝国が滅ぼされると、このタンボ・コロラドは住民にすぐに放棄され、ゴーストタウンよろしく主のいない巨大建造物として数世紀を経て現在に至っている。インカの盛衰と運命を共にしたタンボ・コロラド遺跡。まだまだ訪れる日本人は少ないが、往時を偲ばせる見ごたえのある、保存状態も大変良い遺跡である。 |
第八回
サイウテ遺跡
ケチュア語で「タワンティンスーユ」(四つの州)と呼ばれていたインカ帝国の、何とも不思議な置き土産が、アバンカイから約1時間、距離にして50キロ程のサイウテにある。サイウテはインカ帝国時代どうやら文化センターの役割を果たしていた場所らしい。残された遺跡の敷地はかなり広いが、このサイウテ遺跡のハイライトは、一枚岩を利用した精緻な彫刻である。
中でも有名なのが「タワンティンスーユの見取り図」と呼ばれるもので、幅11メートル高さ2メートル以上の巨大な一枚岩の表面に、動物やアンデス地方に伝わる神々、水路や道路、貯水庫など200を超える 図が彫刻されている。花崗岩で出来た岩の大きさに、高度な巨石文化を築き上げたインカ帝国の偉容を感じずにはいられない。さらにそこに刻み込まれた彫刻の精緻な仕事に、インカ帝国の権力の強大さをまざまざと見せ付けられたような気分を覚える。他にも日時計を彫刻した岩や、サイウテ地域の風土を彫りこんだ岩などが残されている。ここサイウテがかつてインカ帝国の文化センターだったことから、一般の民を諭す目的でこれらの「岩の文化」が造られたのではないかといわれている。
数あるインカ時代の遺跡の中でも、非常に個性的かつ独創的なサイウテ遺跡。機会があったら訪問してみたい遺跡のひとつである。 |
第九回
チャビン・デ・ワンタル
文明の条件
美しく雪化粧を施したブランカ山群を望む標高3250メートルの地に、現時点で南米大陸最古の古代文明とされるチャビン・デ・ワンタルの遺跡が横たわっている。ワラスから車で揺られること約2時間(距離にして110キロメートル程)で、目指すチャビンに到着する。古の宗教センターだったと聞いてのことか、心なしか厳かな気持ちになる。
チャビン・デ・ワンタルは、紀元前1200年〜1400年頃とされるチャビン文明の中心地であり、現存するチャビン文明の遺跡の中では最大級の大きさを誇る。現在カラル遺跡とセロ・セチンの解明が専門家の間で行われていることは、それぞれの項目で触れた。しかし、はっきりとした定説という形を見ている「南米大陸最古の文明発祥の地」の一つにチャビン・デ・ワンタルを加えることに異論を挟むものは少ないであろう。
ペルーの遺跡といえば、マチュピチュを代表するインカ文明時代(1350年〜1500年頃)の遺跡にばかり注目が集まりがちである。1985年ユネスコの世界遺産に登録されたことは、南米大陸に花開いた高度な古代文明の明けの明星に光が与えられた、喜ばしい、好ましい第一歩であろう。
文明の夜明けを伝えるチャビン文明の担い手だった人々は、驚くべきことに、その後も約2000年後のインカ文明の興隆期を迎えるまで、アンデス山岳地方における影響力を持ち続けてきた。いわば南米最強にして最大の帝国を築いたインカ文明への架け橋となったと言えよう。確かにペルー国内にはヨーロッパの文明をも凌駕する完成度を誇るインカ文明の遺産が多数点在している。巨星マチュピチュはもちろん、クスコの旧市街や郊外のサクサイワマン他、枚挙にいとまがない。インカ文明の完成度や成熟度を正しく認識する意味でも、架け橋となったチャビン文明の遺産チャビン・デ・ワンタルは興味の尽きない遺跡である。
チャビン・デ・ワンタルが当時の宗教センターだったらしいことは、先述のとおりである。遺跡の中心の中央広場がまず視界に入ってくるが、地面より若干下がったこの3000年以上前の広場には、複雑な排水設備が凝らされている。広場から続く広い階段を上っていくと「カスティージャ」(城)と呼ばれる巨大な神殿ピラミッドの入り口である。この神殿内からのオベリスクやレリーフなどの重要な出土品は、現在はリマ市内の国立博物館に展示されている。この遺跡の特長ともいえるが、遺跡の大半は多くの地下室から成っており、地下の心臓部に「ランソン」(槍)と呼ばれる、有名な一枚岩がある。このランソンは、チャビン文化の最盛期に造られたと思われる高さ5メートルの一枚岩で、岩には宗教的意味合いを含めたヘビやコンドル、そしてピウマかジャガーかと言われる動物が彫刻されている。
世界史の教科書によると、「文明」の発祥はナイル河畔のエジプト、チグリス、ユーフラテス両川間の肥沃な地メソポタミア、インダス川流域のインド、長江流域の中国などで、紀元前4500年頃〜4000年にかけて起こったそうである。これらの文明に共通の「巨大建造物」が「文明の条件」であるならば、ここチャビン・デ・ワンタルの巨大な神殿は文明以外の何ものでもない立派な証ではないであろう。
1930年代からようやく発掘調査が始まったばかり(レリーフやオベリスクなどは1972年以降に出土)の、まだまだ多くの謎を秘めた遺跡である。カラルやセロ・セチンと合わせて、更なる専門家による調査結果を世界中の遺跡愛好家が心待ちにしている。解明が進めば、「非文明圏」とか「新大陸」といった西欧主義に偏った差別的表現が教科書や、地球上から消え去るのも時間の問題ではないであろうか。アンデスの雪山の絶景に抱かれながら、真の南米が理解される日を夢にみた。 |